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陸前高田のボランティア/こんな感じだよ編

 正直言って、私はこの旅行に出るまで、日本人の桜に対する愛着を十分に理解できていませんでした。前の年、吉野の桜を見に行った時も、「なるほど、桜が多い」と思っただけでした。(中略)東北の長い冬の後、黒い森の中で桜が咲くのが、本当の桜の良さなのだと初めて分かって、更に芭蕉の連句における手腕が分かったような気がします。

 
 ドナルド・キーン氏の『私の大事な場所』の中にある一節を、改めて思い返しました。

 今回お手伝いした家のひとつの住人、アヤ子おばあさん(77歳)は、今、避難所兼老人ホームにひとりでいます。震災前は、孫と2人暮らしだったそうですが(なかなか複雑な家庭事情)、震災後、陸前高田には職がなく、お孫さんは大船渡に行き、別々に暮らすことになったそうです。1週間に一度、アヤ子さんに会いに来て、少し遠くのファミレスに連れ出して、「なんでも好きなもの食べて!」と言ってくれるとのこと。ファミレスに食べたいものはそんなにないけど、自慢の孫の優しい気持ちがうれしくて、いつもご馳走になっているそうです。
 3月11日、毎年行われている検診(?)を受けに、海側にある役所に午前中出掛けていたアヤ子さん。例年は午後までかかっていたのに、なぜかその日は午前で終わりました。そして、自宅で被災。周りの家の人たちに連れられ高台に逃げ、命を取り留めました。ここは比較的内陸で、波の到達まで時間がかかり、死者を出すことなくみんなが避難できた地域です。「もし、午後まで役所にいたら、死んでたのよ」と、ポツリ。
 罹災後、お孫さんと連絡が取れず、お互いに死んだと思っていたそう。ところが、3日後、下の写真のお庭に出ると、ふらりとお孫さんが立っていました。帰ってきたんです! 2人とも泣きながら無事を喜び合ったそうです。
「無事に会えてよかったですね」と言う私に、「そう。そういう話はね、いーっぱいあるの」と答えました。

「津波で死んじゃえばよかったと思ったこともあったけど、今は絶対にそんなこと思わねぇ」

そう、力強く言ったアヤ子さん。歩いて30分もかかるという避難所に、「私たちのバスで送ります」と申し出ても、かたくなに断ります。「あんまり運動してないから、歩かないと。だって、足が悪くなっちゃったら、長く生きてもつまらないから。途中で車が通ったら、適当に乗せてもらうから、いいのいいの」

彼女だけではありません。東北の人たちは、深い悲しみの中から、自分たちの力で少しずつ立ち上がり始めていると感じました。

今回のボランティアでは、民家の瓦礫撤去をしました。約20人で3日間、畑2面と民家2軒の瓦礫やゴミを撤去しました。まずは成果をご覧ください!

before

 After

 before

 
After












このほかにも、畑に散らかっていた木材や壊れたビニールハウスも撤去しました。家の中もグチャグチャでしたが、アルバムや通帳、証書類などを残し、すべてを分別しながら捨てていきます。

運び出したゴミはこんなふうに分別して道路脇に寄せておきます。
 すると、行政がピックアップしにやってくる…そうですが、今、瓦礫を処理する方法、処理場がないという問題が上がっており、ピックアップも滞っているそう。
 木材や洋服、紙類などは水を吸ってニオイを発しはじめるということで、地域の方で、畑で燃やしてしう予定だそう。
 ボランティアした日も、木材だけはどんどん燃やしました。

 私たちのようなボランティアは、テレビで自衛隊が作業しているような、行方不明者がたくさん出たような場所には派遣されません。地域によって違いはあるかもしれませんが、各地域のボランティアセンターに、自治体や団体、個人宅から「ボランティアを、こういう作業のために○人くらいお願いしたい」という要請が届いており、同じくボランティアセンターに「○人で作業しに来た」と登録するボランティアをマッチングさせ、派遣されます。作業場に行くと依頼者の方がいて、その日の作業を細かく指示します。

作業をしていると、周辺の住人の方が、自分の家を片付けてもらっているわけではないのに、飲み物などの差し入れを持ってきてくれます。バスに乗って帰るとき、住人の方々が一生懸命手を振ってくれてジーンとします。

作業中のお手洗いは、近隣の方のお宅で借りました。津波で1階部分の床がほぼ全部はがれ、板を渡してなんとか暮らしている状態の家。1階のトイレのドアも流されていましたが、2階がまったく無傷だったそうで、1階はほぼ吹き抜け状態(ただし、ドアや窓がはめてあります)にも関わらず、そのまま暮らしています。こういう方を「自宅被災者」と言うのかもしれませんが、「まあ、暮らせるし…」とポジティブ。「津波があったのに、こんなにきれいに咲いたのよ。うれしい〜」と奥様が見せてくれたのが、下のボタン。強い!



ボランティア参加する前は、「とにかく私たちが少しでもお役に!」と鼻息が荒かった私たちですが、実際には、自分たちで復興に向かって動き始めた住民の方の手となり足となる…という感じ。「行政に頼ってると、いつまでたっても終わらない」と、自らボランティアを指揮して、片づけを進める姿には、こちらが元気をもらいました。

今回、1日だけ避難所のボランティアに行きました。保健士さんたちのお手伝いで、女性向けに化粧品などを配ったり、体重や体脂肪を測る簡単な健康相談の雑事を担当しました。
テレビで見るような、体育館でダンボールや専用の仕切りで区切ったスペースに、何家族もがひしめきあっています。
おばあさんに、「娘がまだ見つからないの。母親がいなくなった孫がかわいそう」などと話しかけられ、言葉がつまります。
逃げるとき、人の姿は見えないけれど「助けて」「助けて」という声を聞き、だけど振り切って逃げたという人、流されていく車の中にいる人と目が合いそれが忘れられない人。そのときは必死だし、まさかこんな結果になると思わなかった。仕方がないことだけれど、罪悪感を抱えてしまったり、悲しい話はたくさんあります。
「話を聞くだけでもボランティアになる」というのは、それは違うなーと思いました。何も答えられず、ただ聞くことしかできない私は、お役に立っていません。私に話せるというのは、その人たちが自分で心の整理を付けたということだと思います。もしくは、ムリしてそうふるまっているか。そこから深く、心のケアをするのは、素人ではなく専門家の仕事です。
避難所ボランティアを希望する人は多いようですが、あまり安易に派遣されない理由も、なんとなく納得です。

ちなみに避難所はこんな感じ。





北海道からやってきた赤十字の方々。私がうかがった高田第一中避難所は陸前高田の中でも大きいそうで(不信任案の国会中継を被災地がどう見ているかの報道でも、映っていたくらい)、一通りの機能が揃っています。この診療室には、避難所の方だけでなく、地域住民の方もやってくるそう。
滞在中、おいしいコーヒー(インスタントじゃない!)が来たり、足湯サービスが来たり、そのスケジュールも住民の方々でよく把握して、仲良く利用していました。

 作業中に飲んだ、地元のパックコーヒー!

サポートに行ったつもりのボランティアでしたが、むしろ学ぶことが多かった3日間でした。

次回は実践編! しつこく続けます〜



JUGEMテーマ:ボランティア
 

at 08:00, , ボランティア

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陸前高田のボランティア/現状編

5月末、会社を2日休んで、3泊5日で陸前高田の震災ボランティアに参加してきました。

震災後、ずっとボランティアをしたいと思っていましたが、どうやればいいのだろう?と思ったまま時が過ぎ…。そんなとき、以前より勉強会などに参加させていただいていた難民支援協会(JAR) で、難民と行くボランティアを企画しているというお知らせをいただき、そちらに参加しました。

今回は、頑強なクルド人難民4人(男性)を含む、約20人での活動です。

 クルド人参加者の腕! ちなみに彼らはまだ難民認定が下りておらず、在留認可も得ていません(これは不法在住とは違います。難民申請中で、まだ申請に許可が下りていないというだけです)。日本では、難民申請が本当に下りにくく、何年も待たされた挙句、許可されないというケースもたくさんあります。

この難民の方々のお話は、また改めてまとめたいと思います。

木曜22時に東京・四ツ谷に集合し、バスでいざ、陸前高田へ。バスは団体で貸し切り、1晩かけて彼の地へ向かいます。

陸前高田市は岩手県にあります。三陸海岸の北に位置し、湾が奥まっているため津波が大きくなり、場所によっては20メートルもの波が襲ったという、今回の被災地の中でも特に「壊滅的」と言われた地域のひとつ。市の人口の10分の1にあたる2300人以上が死者・行方不明者となったという地域です。日本百景のひとつであった松林が失われましたが、1本だけ松が残り「奇跡の一本松」として報道されたので、耳に残っている人もいるかもしれません。

訪れ、実際に感じたのは、「お金だけでは解決しない。人が動かなければ」という気持ちでした。



何かの競技場跡? すっかり海に飲まれています。



かつては民家があった場所。まるで干潟のようで、ここに人が住んでいたとは想像しにくい。手前に道路があることから、決してここが人がいなかった場所ではないことがうかがえます。



廃車は一箇所に集められています。この中には、もちろん中から遺体が発見された車も含まれているはず。約3カ月で、多くの車を一箇所に集めてしまったのは、もしかしたら素早い復興のシンボルなのかもしれません。が、この光景は寒々しく、墓場のようでした。

 こんな大きな看板もなぎ倒されています。パチンコや大型店かなにかの看板? ということは、そこに店もあったはずですが、跡形もありません。

 こんなに大きなものが、波で流されてくるのです。


 電柱は津波が襲ってきた方向に向かって倒れています。



とある団地は、4階までは完全に流されているけれど、5階はほとんど無事。津波の到達点が分かるのと同時に、今回の被害が、揺れによる倒壊ではなく、波だったことを改めて感じます。



海沿いに比べて、やや被害の少ない地域。“やや被害が少ない”でこれです。要するに、物は残っているという意味。



私たちの作業した地域は、さらに被害が少ない地域。といっても、畑にどこかの家の屋根がひっくり返っていたり、民家は枠組みを残して中の物は流されてしまっています。ただ、家屋の形が残っているという意味で、被害が比較的少ないということらしいです。また、この地域一体、畑も家もダメになってはいますが、死者はゼロでした。

もともと過疎が進んだ地域だったため、住んでいるのはお年寄りが多く、その上、働き手となる人たちで亡くなったり行方不明になっている方も多いよう。そのため、被害地域の瓦礫撤去などの作業をする人が本当に少ない。今回、私たちにボランティア依頼してくださった方(陸前高田のボランティアセンターに「ボランティアに来てほしい」と申請をし、私たちが派遣されました)も、すべて片付けるのには3〜5年かかると言っていました。

集まったお金で人を雇えばいいと思うかもしれませんが、どの自治体も生きている人をどうケアしていくか、まずは立て直すことに必死で、県外や県内の他地域から多くの人を雇って、オーガナイズしコントロールする余力はまだないと感じました。そういう人たちを住まわせる場所も用意できないし。もちろん、政治によって立ち直っていく、現地の人たちが自分たちで立ち上がるのが、復興の第一条件ではあります。他人にできることは小さい。けれど、それができるのはまだ先だし、集まった義援金をうまく使えないという報道に「なんで?」と思ったけど、今は「そうだよなー」という気持ちになりました。もちろん、そのお金を使って復興していかれる日は来るはずですが、今ではないと感じました。

GWに7日間、石巻にボランティアに入ったという友人sちゃんが、「ボランティアが足りない。もっともっと多くの人が参加するべき!」と熱く語っていましたが、たった3日ですが、ボランティアを経て私も同じ気持ち。「できる範囲、ムリをせずに」という言葉も聞くし、考え方は人それぞれだとは思いますが、未曾有といわれる被災地を目にして、私は、みんなが少しずつ、できる範囲よりも無理をして行動しないと、これは終わらないというのが、現地入りした感想です。
本当は、全国の高校、大学のカリキュラムを2週間ずつくらい削って、半強制的に学生はボランティアに行ってほしいくらい!

そうは言っても、時間や体力が許さない…と思うかもしれませんが、私にもできました!
そういうボランティアの話は、つづく編…でお伝えします。

長々と失礼しました。

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at 20:00, , ボランティア

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